第4章  注意義務の基準−医療水準論

 

  1 医療水準論について  

 債務不履行責任と不法行為責任とのどちらに依拠するにするにせよ、その内容をより具体化するために、医療という専門技術的領域において医師が遵守すべき注意義務の基準となる中間概念を設定する試みが必要となる。

 この点において、一般医療過誤事件における判例上で「医療水準」という概念が使用されることがある(医療水準論)。

 最高裁判所も、この理論に関するリーディングケースとされている最判昭和57年3月30日判時1039号66頁の高山日赤未熟児網膜症判決において、「診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準」を右基準として採用する旨を判示し、これを逸脱した場合に初めて医師側の責任を問いうるとしている。

 

 (1) 判例【11】

 歯科診療過誤の領域においても、少数ではあるが医療水準論に言及した判例が幾例か存在する。

 このような判例として、まず判例【11】がある。

 事案は、昭和50年3月頃、患者が開業歯科医師に下顎部歯茎内側に発生した直径約1.5センチメートル大の半球様のこぶ状の物の診察を受けたところ、レントゲン検査の必要はなく軟骨であるから心配いらない旨の診断を受けたので放置していたが、約1年後に改めて大学病院に受診した結果、レントゲン検査等を経てエナメル上皮腫と診断され手術を受けたので、右開業歯科医師に対し、レントゲン検査も経ずに誤診をしたとして訴えを提起したというものである。

 本判例は、「本件において、大病院の医師としての高度の注意義務を被告に要求することは・・・妥当ではない」とし、エナメル上皮腫については一般開業歯科医師の設備及び技術ではレントゲンによる撮影及び病名診断は困難であること等を理由に「一般開業の歯科医としての医療水準からみて、被告が原告を診断した時点において、原告の右こぶ状の物について的確な診断を下すことはその症状からなお困難があったものとみるを相当とし、被告がレントゲン撮影その他の検査を行わず、また、他の十分な設備の整った病院の診断を受けるよう原告に勧めなかったからといって、右段階において、直ちに被告に一般開業の歯科医師として通常用うべき注意義務・・・を怠った過失があるものとして、その責を問うことはできない」と判示して請求を棄却した。

 

 (2) 判例【10】

 次に、判例【10】は、患者が開業歯科医師に従来の架工義歯(ブリッジ)を除去して新たな架工義歯の製作・装着を受けた後、右治療部位に、下顎運動障害、咬合不全、舌部等への多数の咬傷が生じ、口腔内の出血、粘膜剥離、慢性的炎症等の症状が発生したので、患者が、右歯科医師には、・・・

<1> 架工義歯製作・装着上の過失があり、

<2> 右装着後に改善措置を講じなかった過失も存在する、

・・・と主張したという事案である。

 本判例は、まず、およそ歯科医師は、架工義歯の形状が患者に適合しないときは、咬合不全による咀嚼系機能障害、舌部及び内頬部における咬傷、ひいてはこれらに起因する慢性的炎症等の傷害を惹起することを予見し、これを防止すべき注意義務を負うが、架工義歯の咬合状態等に及ぼす影響は個性的且つ微妙で装着後の使用による順応性により適当な口腔状態の形成・保持も期待できるので、「開業歯科医師としては、患者の従前の歯牙・義歯の形状及び咬合状態に格別異常を認めない限り、その形状と状態を参考として、開業歯科医師の有する通常の設備、歯科医学的技量をもって通常の方法に従って架工義歯を製作・装着すれば、一応前記注意義務を尽したものというべきである」として、右<1>の過失を否定した。

 次に、右<2>については、右患者が前記「症状等についてその発生の都度被告に対し訴えたことが明らかである」とした上、前記運動障害につき「開業歯科医師としては通常の診療及び平常使用の咬合器によって容易に発見しうるものであり、本件治療行為当時における一般開業歯科医師の水準によっても、咬合不全、下顎運動障害が、・・・咀嚼系統に異常をもたらす原因となることは周知の事実であった」にもかかわらず、原告の前記主訴等につき、精査、原因の検証、探求等をおこなわなかったとして、この点に関する過失を認めている。

 (3) 判例【7】

 さらに、判例【7】の事案は、4歳児である患者が抜歯治療中に急に顔を振ったため、歯科医師が既に抜歯して自在鉗子に挟んでいた乳歯を右患者の口腔内に落下させたので、右歯科医師がこれを口中から吐き出させようとして右患者の上半身を起こしたところ、右患者が右乳歯を声門下部に詰まらせて気道閉塞し、間もなく窒息死したというものである。

 本判例は、右乳歯を口腔内に落下させた時点では右患者は気道閉塞の症状には至っていなかったのであるから、右患者を水平位のまま「上半身を起こすことなく異物を取り去る措置をとるべきであった」が、右歯科医師は、「かえってその挙に出てはならないとされているところの右患者を水平位から座位に起こす措置を採ったのであり、これは右の医療水準から見て診療上尽くすべき注意義務に違反している」等として、医療水準論に言及した上、右歯科医師の過失は重いと判示した。<注17>

  3 医療水準と歯科判例

 

 ここで医療水準論の詳細につき論じることは本稿の目的を越えるが、医療水準論は一連の未熟児網膜症訴訟を巡って議論されてきた理論であり、日進月歩の医療の特質を踏まえ、前記最高裁判決は、学問としての医学水準と区別される意味での診療当時の「臨床医学の実践における医療水準」を基準とすべきことを判示しており、そこでは当該治療方法等が診療当時には未だ治験・追試段階にすぎなかったか、既に臨床レベルで確立するに至っていたかという点が、医師の注意義務違反の有無を区分する役割を果たしているとされている<注18>

 次に、医療水準を全国一律のものと考えるか否かにつき、未熟児網膜症事件に関する最判昭和63年1月19日判時1265号75頁における伊籐正己裁判官の補足意見は、医療水準は全国一律ではなく「当該医師の置かれた諸条件、例えば、当該医師の専門分野、当該医師の診療活動の場が大学病院等の研究・診療機関であるのか、それとも総合病院、専門病院、一般診療機関などのうちのいずれであるのかという診療機関の性質、当該診療機関の存在する地域における医療に関する地域的特性等を考慮して判断されるべきものである」としている<注19>

 これらの結論については議論が存在するところであるが、既に判例理論として一応は定着したと評されている。

 しかし、この理論を前提にしても、判例【7】では、右の諸点を問題とする必要性に乏しく、実際にも判旨自体で過失の程度が重大であることも明らかであるとしているのであるから、敢えて「医療水準」に言及する必要性が存在したか否かについては疑問が残る。

 これに対し、判例【11】では、大病院の医師としての高度の注意義務ではなく一般開業の歯科医師としての医療水準を判断基準とすべきであると判示し、もって病院間の医療格差に基づき医療水準を区分する立場を採用しており、その限度では、前記伊藤補足意見との共通性があるし、判例【10】でも「開業歯科医師としては」という用語が用いられていることからすれば、同じく共通性が窺われないでもない。

 しかし、判例【11】については、そもそも生理学的にみて問題の部位に軟骨が存在するものであるか疑問があるので、当時の開業歯科医師の医療水準を前提としても担当歯科医師が軟骨であるとして疑わなかったことは問題であるし、また、同判例が転送義務も否定している点についても強い疑問がある。後者の点は後の箇所で改めて説明する。

 【14】福岡地判平成6年12月26日判時1552号99頁、判タ890号214頁は、アスピリン喘息患者に対するロキソニンの投与は禁忌であることを知らなかった歯科医師が投与した鎮痛抗炎症剤ロキソニンによってアスピリン喘息患者がアスピリン喘息発作を起こして窒息死した事案である。本判例は、「本件事故当時、被告は、ロキソニンを投与するにあたり、その禁忌症であるアスピリン喘息に関する知識の修得に努めなければならないという歯科医師としての研鑽義務を負っていた・・・にもかかわらず、・・・アスピリン喘息の概念やアスピリン喘息とロキソニンの関係につき何ら知らなかったのであるから、右研鑽義務を尽くしたものとは到底いえず、この点において既に被告のロキソニン投与には過失が認められる」とした上で、「アスピリン喘息に関する知識の修得という研鑽義務を怠り、そのため、勘之助の喘息がアスピリン喘息であるか否かについて問診することを怠り、さらには、勘之助の喘息がアスピリン喘息ではないと確定的に診断できない以上ロキソニンを投与してはならないという投与における注意義務を怠って漫然とロキソニンを投与した」として歯科医師の不法行為責任を認めた。その際、「アスピリン喘息に関する知識が福岡市内の開業歯科医師の間では一般的に定着するに至っていたとはいえないなどの事情は被告に課せられていた研鑽義務を何ら軽減するものではない」としていることは、前述の医療格差をどのように評価すべきかという観点からは興味深い。