第9章  過失相殺

 

  1 歯科診療領域における過失相殺の特色

 

 歯科診療領域における過失相殺を検討するに際しては、一般の医療過誤事案と同様に、一方において、一般の医療の場合と同様、医療は患者と医師との共働関係であるから、患者側の行為が医療行為に影響を及ぼすこと、他方では、歯科医療の専門性から歯科医療分野に専門的知識を有しない患者は受動的立場にあることを考慮する必要が生じる。

 
  2 既往症や体質的素因に関する患者からの不告知の問題

 歯科診療過誤に関し過失相殺を論じるについては、既往症や体質的素因に関する患者からの不告知が問題とされることがある。例えば、厳密には歯科診療過誤の事案ではないが、【25】東京地判昭和47年3月7日判時678号56頁は、看守が歯痛止めに投与したグレラン末剤により受刑者に薬疹のため皮膚瘢痕が生じたことを理由とする国家賠償訴訟の事案で、被告である国に慰謝料支払義務を認めたが、原告である受刑者としても、ピリン系アレルギーの特異体質であることを繰り返し述べ、服用の際ピリン系薬剤か否かを確認しておけば結果を回避できた点を認めている。もっとも、この点については、慰謝料額算定にあたり考慮しているにとどまる。

 
  3 診療中の患者の不注意

 次に、診療中の患者の不注意が問題とされることもある。

 診療中の患者の不注意という点については、前述のとおり、4歳児が抜歯治療中に急に顔を振ったため歯科医師が既に抜歯していた乳歯を口腔内に落下させて気道閉塞により窒息死させた事案に関する判例【7】では、被告である歯科医師は、右死亡は右幼児が突然首を振ったことに起因するとして被告は過失相殺を主張した。

 しかし、裁判所は、幼児に抜歯の際に完全な体動抑止を期待するのは困難であり、歯科医師としては幼児の突然の体動は当然の予想範囲内にあること、付添の母親と離れ独りで診察室に置かれ抜歯を受けるという状態により幼児に恐怖心が生じるのはやむを得ないこと等を理由に、過失相殺を認めなかった。<注45>

 もともと、4歳児自身に過失相殺能力が存在するのか疑問があるし<注46>、他方で付添をしていた母親に関し「被害者側の過失」を論ずるのであれば、右母親にどのような内容の過失相殺されるべき落ち度が存在したのか不明であるから、右判例の結論自体には異論は少ないものと思料される。

  4 患者の不養生

 さらに、患者の不養生が問題となる場合もあり、判例【10】においては、患者の通院廃絶が問題とされ、前述のような事実関係の下で、「歯科診療を受けるに際しては、患者にも診療に協力すべきことを求めるのは、事物の性質上当然と解すべ」きであるとした上、不適合な治療を受けたことによる障害、病状を自覚したにもかかわらず患者が合理的理由なくして一方的に通院を廃絶して約1年8ヶ月にわたり病状を放置したことによる症状等の拡大を理由に、患者が歯科医療分野に専門的知識を有しないこと等を斟酌した上で、3割の過失相殺を認めている。


 

  第10章  結びに代えて

 

 

 現代の歯科診療では、前述のとおり、歯科医業固有の補綴・矯正等の技術的行為だけでなく、歯学の使命である咀嚼及び発音の機能確保等に必要である口腔部位の癌等に関する手術も含まれると解されるに至っている。

 前者については、一般医療領域と比較した歯科診療領域における治療方法の多様性、審美性、自由診療の比率の高さ等の特殊性を背景として、歯科医師の説明義務と患者の承諾という点を中心に少なからぬ紛争が発生してきている。

 冒頭に掲げた近時のアンケート調査では、歯科医師全体の80%強が説明をおこなう方向にあり、しかも若年の歯科医師ほど説明をおこなう傾向にあるが、開業歯科医師の27%が患者の求めがなければ説明しないとしており、患者の自己決定権に関する社会認識には疑問が残るものとされている。

 また、近時は判例【9】のようなインプラントといった先進的治療や、判例【8】に示された自由診療による高額治療を勧める際の説明内容と注意義務との関係が問題とされるに至っている。

 他方、後者については、かつて判例【2】でも争いとなった「医業」と「歯科医業」との区別に関する基本的枠組みの中で、現代の歯科診療の領域は拡大傾向にあるとされているので<注47>、大学病院等の先端医療機関を中心に今後も転科義務も含めて同種の紛争が増加するものと思われ、また、判例【11】のように一般開業歯科医師による先端医療機関への転送義務も問題として認識される必要がある。

 以上のとおり、歯科診療を巡る紛争の形態も多様化し高度化する傾向にあるので、今後もさらに歯科医療及び医事法学の分野から、より立ち入った分析をおこなう必要があるものと解される。

 最後に、本稿の執筆にあたって終始多大なご指導を賜った京都教育大学の辻朗教授に、感謝の意を表させていただきたい。

(完)