Introduction

はじめに


Chris DiBona, Sam Ockman, Mark Stone
クリス・ディボナ / サム・オックマン / マーク・ストーン
Translation by Akira Kurahone



 Linux(リナックス)を開発したのはリーナス・トーバルズである。その彼自身の説明によると「リーナス」という名前は、彼の両親が尊敬していたノーベル賞科学者リーナス・ポーリングにちなんだものらしい。ポーリングは、ノーベル賞を一度だけでなく、二度も受賞している。そして、DNAの構造が発見できたのは、彼の基礎研究のおかげなのだが、そのあたりのエピソードに、オープンソース運動に通じる教訓が含まれているように思われる。
 広く知られているように、実際にDNAの構造を解明したのはポーリングではない。その偉業をなしとげたのはフランシス・クリックとジェームズ・ワトソンの二人である。そしてその経緯は、ワトソンの著書『二重らせん(The Double Helix)』に詳しい。この本には、科学的探究が実践されていく様子が驚くほど正直に語られている。そこには、才能のきらめきや鋭い洞察だけでなく、科学者間の政治的な駆け引き、競争、運のありなしが勝者を決めた要因であることが説明されている。DNAの秘密をめぐる探究は、ワトソン、クリックのケンブリッジ大学のグループと、ポーリング率いるカリフォルニア工科大学グループの熾烈な競争であった。
 ワトソンは、『二重らせん』の中で、自分とクリックがDNAの謎を解き明かし、らせん構造モデルを作りだしたことをポーリングが知ることになった経緯について述べている。そして彼の困惑まじりの記述に登場するのが、ケンブリッジとカリフォルニア工科大を行き来していた彼らの共通の友人、マックス・デルブルクである。ワトソンとクリックは、すべてがはっきりするまで自分たちの大発見をもう少しの間ふせておきたいと思っていた。デルブルクはそんな二人の心情に共鳴しつつも、結局、科学そのものへの忠誠を貫く。ポーリングが自分たちの発見について知ったときのことを、ワトソンは次のように記している。

 私は、デルブルク宛ての手紙の中で水素の二重構造について書き、最後のところで、リーナスには言わないでくれと頼んでおいた。自分たちの見解を整理するにはあと数日かかる。それまでポーリングには、水素結合のことを考えてほしくなかった。何らかの理由で違った結論になる可能性がまだあったからである。しかし私の要望は聞き入れられなかった。そしてリーナス・ポーリングは二重らせんのことをマックス・デルブルク経由で耳にしている。デルブルクが研究室の誰かれかまわず話したからである。デルブルクには、数時間もすればあ、その噂が生物学研究室から、リーナスの下で働く人間に伝わることがわかっていた。彼がそのような行動をとったのは、私から何か聞いたらすぐに伝えることをポーリングに約束させられていたからである。また、科学にはどんな秘密もあってはならないという考えのデルブルクは、ニュースを知りたくてやきもきしているポーリングをそのまま放っておけなかったのである。

 ワトソン自身も、秘密主義に違和感を覚えていたことはまちがいない。競争があるゆえに、当事者は持てる知識をすべてさらけ出そうとしない。秘密主義は、たとえわずかにせよ、科学の進歩を遅らせかねない。ワトソンの著書『二重らせん』のテーマのひとつは、彼のそんな告白である。
 突き詰めて言うなら、科学的探究は情報を秘密にしないオープンソースの考え方そのものである。科学の手法は、発見のプロセス、正当化のプロセスを基盤としている。科学的な結果が正当と認められるには、再現性がなくてはならない。同じプロセスを科学的に再現するには、どういう仮説であったか、実験条件や結果はどうだったかといったことについての情報が不可欠である。発見のプロセスには何通りもの経路があり、科学的発見は何の脈絡もなく起こることもある。しかし最終的には、発見のプロセスは情報共有されなければならない。コミニュティで情報が共有されることによって、ある研究者ができなかったことにほかの研究者が挑戦できる。誰かのアイデアに別の人間が手を加えて結実させることもできる。これらのことは、情報の共有なしに実現できない。


オープンソースとフリーソフトウェアの関係
 MITの人工知能研究室所属のリチャード・ストールマンがGNUプロジェクトに着手したのは一九八四年のことである。誰もが無料でソフトウェアを入手できるようにする。簡単に言えば、それがGNUプロジェクトの目標であった。ストールマンは、プログラムの背景にある知識、つまり業界用語でソースコードと呼ばれる情報は無料であるべきだという信念に触発されてGNUプロジェクトを始めている。プログラムの背景にある知識が有料であったなら、コンピュータの世界はごくひと握りの強者たちに独占されてしまう。ストールマンはそう考えたのである。
 ソースコードをどうとらえるかについて、ストールマンの考え方は商用ソフトウェアの開発元と大きく異なっている。ベンダーにとって、ソースコードは門外不出の企業秘密であった。しかしストールマンにとって、ソースコードはコミニュティで共有され、配布されるべき科学知識にほかならなかった。それゆえ、GNUプロジェクトとFree Software Foundation(FSF−フリーソフトウェアファウンデーション、GNUプロジェクトの親組織)は、基本理念として、コンピュータサイエンスが進歩し、技術革新が進むにはソースコードの入手が自由でなければならないという考え方を掲げている。
 しかし科学知識とソフトウェアに関する人々の認識には差がある。科学知識は学術論文として公開されている。しかしソフトウェアのソースコードが無料で公開されれば、それを企業が取り込んで、自社の金儲けに活用しようとする可能性が十分にある。フリーソフトウェアが利己的に利用される危険性に対抗する手段としてストールマンが考え出したのが、GNUゼネラル・パブリック・ライセンス(GNU一般公有使用許諾書、略称GPL)というライセンシング形態である(付録B)。
 GPLでは、ソフトウェアのコピーや配布を自由にできる。しかし、GPLされているソフトウェアを再配布する際に、ライセンス条項や条件をGPLに追加・変更して、第三者がコピーしたり配布することに料金を課すことはできない。他人の自由なコピーや配布を妨げることもできない。GPLのソフトウェアをもとにしたソフトウェアは、GPLで再ライセンスされなければならない。
 ところで、英語の「フリー」という単語には、「無料」という意味と「自由」という意味がある。この二つの「フリー」は、「表現するのは自由だが、ビールがロハになるわけではない」という言い方で区別される。本書ではストールマンたちがフリーソフトウェアについて語っているが、彼らが言いたいのは言論の自由(フリー・スピーチ)にほかならない。しかしソフトウェア会社の多くは、フリーソフトウェアの「フリー」がビールのことではなく自由ということのせいで、長い間フリーソフトウェアの考え方を拒絶してきた。結局のところ企業は金儲けが目的であって、知識を育てることが目的ではない。ストールマンにとって、この違いは当然受け入れるべきものであると同時に、おそらく歓迎すべきものでもあった。


オープンソース・ソフトウェアという名の由来
 一九九七年春、エリック・レイモンド、ティム・オライリー、それにVAリサーチ社社長のラリー・オーガスタンなどがカリフォルニアに集まった。いずれもフリーソフトウェア界を代表する人物である。彼らの目的は、これまでフリーソフトウェアを敬遠してきた人々に、その様々なアイデアを広めていく方法を探ることにあった。FSFが掲げてきたアンチビジネスの旗印だけでは、フリーソフトウェア本来の可能性を正しく評価してもらえないのではないか。彼らの懸念はそこにあった。そして、不足しているのはマーケティングキャンペーンである、と主張したエリック・レイモンドの考え方に全員が同意し、精神的な支持とともに市場シェアを獲得するためのキャンペーンを企画する議論が展開された。その過程でフリーソフトウェアに代わる名称として彼らが考え出したのが、オープンソースという新しい呼び名である。彼らは、ガイドラインを作って、自分たちが推進しようとするオープンソースの概念を定義できるようにした。
 オープンソースを定義するためのたたき台作りに最も貢献したのは、ブルース・ペレンスである。ペレンスは、Linuxを配布する際に、GNUの理念に合致したソフトウェアのみをその配布パッケージに含ませるという
デビアンプロジェクトのリーダー的存在だった。なぜデビアンの配布形態がそのようになったかというと、そもそもLinuxがGNUツールを使って開発されたものであったからである。また、GNUプロジェクトが、GNUソフトウェアを動作させるためのプラットフォーム、つまりオペレーティングシステムも無料で入手可能にするという目標を掲げていたからである。このような経緯を盛り込んでペレンスは「デビアン社会契約(Debian Social Contract)」を作成した。そして、オープンソースの基本であるデビアンの考え方は、GNU精神に根差しているのである。
 ライセンシングの形態に関してGPLよりも大幅な自由を認めているオープンソースの考え方では、著作権を有するソフトウェアとオープンソースのソフトウェアを組み合わせて新しいものを作るようなことも可能である。
 つまりオープンソースの考え方では、金を支払ったり、出典を明記することなく、オープンソースのソフトウェアを使用したり再配布したりできるので、ネットスケープ・ブラウザのソースコードを無断で拝借して、著作権のあるほかのプログラムと一緒に配布するようなこともできる。ネットスケープ(Netscape)社にその旨を知らせる必要もないのである。ネットスケープ社がそのようなことを許す理由はいろいろあるが、クライアントコードの市場シェアが広がり、結局はネットスケープ社がビジネス的に得をする、というのが第一の理由であろう。ソースコードを公開することは、プラットフォームを普及させる手段としてうまい話なのである。ネットスケープ社がGPLとしてではなくオープンソースとしてネットスケープ・ブラウザのソースコードを公開した理由も、おそらくそこにあると思われる。
 ネットスケープ社は、自社ブラウザのソースコードをGPLとして公開しなかった。詳しいいきさつを知らない人には些細な話に聞こえるかもしれないこの決断は、決して些細なことではない。その証拠に、Linuxコミュニティでは、一九九八年後半、あるソフトウェアをGPLにすべきか否かをめぐり、コミュニティを分裂しかねない論争が起こっている。
 上記の論争のきっかけはGNOME(ノーム)とKDEというソフトウェアの登場であった。この二つは、いずれもオブジェクト指向のデスクトップインターフェイスを構築するためのソフトウェアであるが、トロール(Troll Tech)社のライブラリを使うKDEは安定性の面で優れていた。いっぽう、GNOMEは、GTK+ライブラリを使っていた。そして、フリーソフトウェアとして配布されていたGTK+ライブラリは、完成度においてに劣っていた。
 以前であれば、トロール社はGPLにするか、著作権を保有するかのどちらかを選択しなければならなかった。そのような選択をしなければならない限り、GNOMEとKDEの溝は埋まらなかったと思われる。しかしオープンソースというライセンシング形態が選択肢のひとつとして登場したことによって、トロール社はオープンソース定義に従ったライセンス形態でKDEを提供しつつ、GTK+ライブラリの先進的な技術をKDEに取り入れることができたのである。これによってLinuxコミュニティを分裂しかねないように思われたライセンイング形態をめぐる溝は、その幅を縮めつつあるように見える。


コンピュータ業界の暗黒部分(ダークフォース)
 ワトソンが二重らせん構造を発見したころ、彼自身は気づいていなかったかもしれないが、生物学は新しい時代を迎えようとしていた。それ以前、生物学や化学は、科学研究と呼ばれていたものの、実際には実用的な職人芸として、小人数の研究者グループが実践していたにすぎない。それが、ポリオワクチンやペニシリンの発見などといった医学上の重要な進展を契機に、ワトソンが二重らせん構造を発見したころを境として、生物学の成果を土壌にしてひとつの産業が形成されようとしていた。
 現在では有機化学や分子生物学、そして基礎医学は、ひと握りの研究者がこつこつする職人芸としてではなく、ある種の産業として展開されている。学界が研究活動をやめたわけではないが、それでも研究者の多くは製薬業界で活動している。研究費の大半も製薬業界が出しているので、科学と産業は密接な提携関係にある。しかしこの関係はお世辞にも安定しているとは言えない。製薬会社は、想像もつかない額の研究資金を研究機関に提供しているが、それは金儲けのためである。製薬会社が巨額の資金を出すとしたら、それは投薬ベースの研究をサポートするためであろうか? それとも、物理療法ベースの治療法の研究をサポートするためであろうか? これらの問にたいする答えは明白である。
 有機化学や分子生物学と同様、コンピュータサイエンスにも、業界との不安定な提携関係が存在する。それは、コンピュータサイエンス学界の人間が新しいアイデアを出し、それをコンピュータ業界が展開するという関係だ。オープンソース運動においても、プログラマ部隊の多くはコンピュータサイエンス専攻の学生や大学院生が占めているが、それでも、最近では業界関係者の増加が目立っている。
 コンピュータ業界は、いくつもの革新的技術を世に送り出してきた。イーサネット(Ethernet)にしても、マウスにしても、そしてグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)にしても、いずれもゼロックス社の研究所であるPARCで誕生したものである。しかしコンピュータ業界に不気味な一面があることもまた事実である。たとえば、今日のデスクトップコンピュータは、マイクロソフト社という一企業によって、その仕様やアプリケーションをほとんど牛耳られているが、それがいいことだと考えているのは、ワシントン州レドモンドにいる同社の人間だけである(マイクロソフト社の本部はレドモンドにある)。
 また、待望されながらグラフィカル・イメージ・マニピュレーション・プログラム(GIMP−アドビ・フォトショップと同様な機能を持つフリーな画像処理ソフトウェア)がなかなか完成にこぎつけられないことからも推測できるように、コンピュータ業界が非意図的にせよ技術革新の足を引っ張ることもある。たとえば、GIMPがベータ版リリース0.9のまま一年間も足踏み状態なのは、開発者であるカリフォルニア大学バークレー校の二人の学生が、学業なかばにして就職してしまったからだと言われている。


オープンソース運動
 オープンソース運動はトップダウン的に始まったものではない。それは、純然たる草の根運動としてボトムアップ的に始まったものである。そして、この運動は、エリック・レイモンドやブルース・ペレンスといった啓蒙活動家たちが、「フリーソフトウェア」という表現の「フリー」の意味の解釈を、より適切な解釈に再定義することに成功したことを契機にはずみをつけている。しかし、本当の意味で機が熟していなければ、たとえ彼らの尽力があったとしても、オープンソース運動が今のように活発になることはなかったであろう。機が熟しているとは、今やコンピュータ業界に新しい世代のプログラマたちがたくさん進出しているという意味である。GNUプロジェクトの洗礼を受けコンピュータサイエンスを学んだ世代の学生たちがすでに業界で働きだしており、何年も前からこっそりフリーウェアを現場で使っているのである。彼らは、崇高な意図のもとにそのようなことをしていたわけではない。彼らは、より優れたソースコードを仕事に使いたかったのでそうしていたにすぎない。オープンソース運動活発化の下地は、このような人々が現場に進出したことで出来上がっていた。
 このようにして始まったオープンソース革命の主役は、オープンソースのソフトウェアを学生時代に上手に使用していた人々である。彼らは、社会人となった今、オープンソースを再び上手に使ってネットワークエンジニアやシステム管理者、そしてプログラマとして成功したいと思っている。企業にとっても、フリーソフトウェアは今や欠かせないものとなっている。知らず知らずのうちにそういう状況になってしまった企業も多いが、一部の企業は意図的にフリーソフトウェアを導入してきている。企業がフリーソフトウェアを利用する状況が出現したことは、オープンソースの機が熟したことを意味する。実際の話、レッドハット・ソフトウェア(Red Hat Software)社のように、オープンソースの考え方に基づきビジネスモデルを展開するところも出現している。
 レッドハット・ソフトウェア社は、ボブ・ヤングが率いる企業である。本来フリーソフトウェアであるLinuxをRed Hat Linuxという製品にパッケージ化し、それを主力製品として販売することで利益をあげている。フリーソフトウェアであるLinuxは無料で入手できるが、完全なLinuxシステムを作りあげるには、何種類ものフリーソフトウェアをダウンロードしなければならず、自分でいろいろやるのはなかなか面倒である。ボブ・ヤングはそこに目をつけ、フリーソフトウェアをパッケージ化したものに出来のいいマニュアルをつけて販売するという、ユーザへの利便性を売り物にするビジネスを始めたのである。
 しかし、そういうビジネスを展開しているのはボブ・ヤングひとりではない。なのになぜ、アメリカではレッドハット・ソフトウェア社のLinuxがよく売れているのだろうか? ヨーロッパでは、スーセ(S.u.S.E.)社のLinuxがよく売れているのだろうか? それは、オープンソースのソフトウェアを売るビジネスが商品を売るビジネスであるからである。商品を売るビジネスにあっては、それがどんな商品であっても、消費者はそれが信頼できるブランドものの商品であるか否かを重視する。そしてレッドハット・ソフトウェア社の強みは、自社ブランドをちゃんと管理しているところにある。同社は、一貫したマーケティング戦略を実施し、レッドハットという会社名を一般ユーザへ浸透させている。自社の名前が口コミで広がるように努力している。スーセ社も同様な努力をしている。レッドハット・ソフトウェア社もスーセ社も、他社に先駆けてブランド管理に真剣に取り組んだゆえに、それぞれ市場のシェアを伸ばしていると言える。
 オープンソースでビジネスをするうえで不可欠なのが、利益の一部を利用してユーザコミニュティをサポートする取り組み姿勢である。レッドハット・ソフトウェア社やスーセ社などLinux関係の企業は、金儲けだけでユーザへの還元なしのビジネスをLinuxですれば二つの問題に直面することをちゃんと承知している。そのような企業は、タダ乗り組と見なされて、コミニュティから支持されなくなってしまう(結果として、コミニュティは競合他社のかたを持つようになってしまう)。もうひとつは、ユーザへの還元なしに、他社との違いをわかってもらうのは難しい。たとえば、一ドルそこそこでLinux入りCDを売っているチープバイト(CheapBytes)社やLinuxセントラル(Linux Central)社よりレッドハット・ソフトウェア社の価格が高くて当り前と思ってもらうためには、レッドハット・ソフトウェア社が何らかの還元をコミニュティにしていることが必要である。オープンソースのビジネスモデルの皮肉な点は、新規コード開発をサポートし、それをオープンソースととしてできるだけ多くの人に配布するゆえに、レッドハット・ソフトウェア社は四九・九五ドルという価格でLinuxを売れるのである。
 レッドハット・ソフトウェア社のようなブランド管理はオープンソースのビジネスにとって新しい形態である。しかし、よいサービスを提供することでビジネス展開をはかるという、昔ながらのビジネス手法で成功しているところはオープンソースのビジネスにおいてもかなり以前からある。たとえば、マイケル・ティーマン(Michael Tiemann)は、無料で入手可能の世界最高のコンパイラGCCの技術サポートやカスタマイズを希望する企業相手のビジネスを目的としてシグナスソリューションズ(Cygnus Solutions)社を設立している。ティーマンとシグナス社を共同設立したジョン・ギルモア(John Gilmore)は、シグナス社のことを「フリーソフトウェアを使いやすくする」会社だと語っている。
 無料で提供されるソフトウェアの技術サポートを有料でする。実際のところ、オープンソースの世界ではこのビジネス形態が急速に広まりつつある。VAリサーチ社は、クオリティの高いLinuxシステムを作り、それを技術サポートするビジネスを一九九三年以来展開している。ペンギン・コンピューティング社も同様の製品とサービスを提供している。リナックスケア(LinuxCare)社は、Linux関連のありとあらゆる面でフルサポートを行なっている。メールサーバソフトのsendmailの開発者であるエリック・アルマン(Eric Allmen)は、市場シェアの80%を占めるこのソフトの技術サポートとカスタマイズをビジネス化する目的でセンドメール社を設立している。このセンドメール社の面白いところは、知的所有権を持つsendmail Proの販売だけでなく、開発サイクルでsendmail Proの一年前のバージョンをフリーソフトウェアのsendmailとして配布していることである。
 また、本書の執筆陣の一員であるポール・ヴィクシー(Paul Vixie)は、「www.dibona.com」といったアドレスをIPアドレス(たとえば209. 81. 8. 245)に変換するBINDというプログラムの開発者である。彼が会長を務めるヴィクシー・エンタープライゼス(Vixie Enterprises)社は、BINDがらみのビジネスで実質的な寡占状態を満喫している。このプログラムは目立たないながらも、誰かが電子メールを送ったり、ウェブサイトにアクセスしたり、ftpでファイルをダウンロードするときにはかならず使われるものである。BINDの普及度が抜群なので、BINDがらみの技術コンサルテーションだけでヴィクシー・エンタープライゼス社は商売繁盛なのである。


科学的手法による技術革新
 オープンソース運動の進展にともない、レッドハット・ソフトウェア社やセンドメール社のような企業が大成功をおさめていることは事実であり、興味深いことである。しかしもっとも注目にあたいするのはそれらの企業の成功話ではない。それはIBMやオラクルなどといった業界の大企業が、オープンソース運動の進展をひとつのビジネスチャンスと思いはじめていることである。彼らの目にはオープンソース運動が技術革新として映っており、彼らはその可能性に魅力を感じているのである。


技術革新
 突き詰めて言うなら、発見を正当化していくプロセスである科学的手法をもちいての探究は、オープンソースでなければ成立しない。科学の世界では、再現性がなければどんなものも正当なものとして認められないからである。再現性の証明には、仮説、実験条件、その結果についての情報源の公開が不可欠である。発見のプロセスには何通りもの経路があり、科学的発見は何の脈絡もなく起こることもある。しかし最終的には、発見のプロセスは情報共有されなければならない。それにより、一人の研究者ができなかったことに別の研究者が挑戦できる。誰かのアイデアに別の人が手を加えて発展させることもできる。
 この点においてオープンソースもまた科学的探究である。科学者が再現性を通じて発見を正当化していくように、プログラマは再現性を通じて新しいプログラムをデバッグしていくのである。それがコンピュータサイエンスであり、そのような科学手法の延長線にあるオープンソース運動も、プログラミングという行為によって成り立っているコンピュータ産業の活動自体も、科学的探究の一種なのである。プログラミングについて、コンパイラの発明者であるグレース・ホッパー(Grace Hopper)は、一九六○年代初頭に次のように語っている。



 このようにコンピュータサイエンスは知的探究をする科学である。しかし、コンピュータサイエンスは、ソースコードの共有以外に結果を再現する手段がない点において、他の分野の科学と根本的に異なる。プログラムの有効性を第三者に対して立証するためには、そのプログラムをコンパイルし動かす手段を、ソースコードを共有するという形で提供しなければならないからである。
 科学的発見や成果は、その再現性を通じて確固たるものとなっていく。とはいえ、科学者といえども、自分一人で再現性を完璧に検証することはできない。ありとあらゆる実験条件をたった一人で想定できる人などいないからである。仮説のあらゆる側面を検証できる環境を一人で持ちあわせている人などいないからである。しかし、仮説や結果を多くの人々と分かちあうことはできる。そうすれば、一人での検証では見落としかねないことも見落とさないですむ。オープンソース運動では、「見る目がたくさんあれば、どんなバグも見つけられる」と言ったりするが、意味することは同じである。開発者は、自分のプログラムをオープンソースにすることで、そのプログラムをより安定したものにすることができる。自分だけでは対応しきれない、多種多様な環境でプログラムをテストしてもらうことができれば、自分だけでは見つけられないバグも発見してもらえるかもしれない。ソースコード・レベルでプログラムを提供するオープンソース運動にあっては、バグが発見されやすくなるだけでなく、多くの場合、発見者によってバグが取り除かれるというメリットもある。
 科学探究にあっては、研究成果の公開や共有はさらなる発見や成果を促しうる。誰がどこでどんな研究をしているかがわかるようになるので、同じテーマの研究をして努力が無駄になるのを避け、別のテーマを研究しようとする人が多くなるからである。一人が研究をやめても、それまでの成果に意味を見い出し、同じテーマを引き継ごうとする人も出てくるので、長年続けられてきた貴重な研究が途中で立ち消えになってしまうようなこともなくなる。オープンソースにあっては、ソースコードの共有がコミュニティ全体の創造性に貢献している。関連性のあるプログラムを開発している人たちは、ソースコードの共有を通じて、お互いの成果を活用しあうこともできる。お互いのリソースを結集させて、ひとつの大きなプロジェクトを発足させることもできる。ひとつのプロジェクトが刺激となって別のプロジェクトが走りだすかもしれない。主要プログラマの異動によって途中で宙ぶらりんになりかねないような開発プロジェクトも、そのソースコードが公開・共有されていれば、ほかのプログラマが引き継げる。だから、価値あるプロジェクトが中断状態のまま陽の目を見なくなるようなこともなくなる。たとえば、先ほどお話ししたGIMPも、プログラミングをしていた学生の就職によって一年間は中断されていたが、今では開発がちゃんと再開され、オープンソースの開発者たちによってしばしば引き合いに出される存在になっている。つまり、オープンソースの開発者たちは、エンドユーザ向けアプリケーションの分野で自分たちに何ができるかを考えるとき、このGIMPの話を誇りをもって引き合いに出すのである。
 フォーチュン500に登場するような大企業も、オープンソースという考え方を頼もしい技術革新モデルとして考えはじめている。たとえばIBMは、顧客企業のMIS関連部門に(フリーなウェブサーバである)Apache(アパッチ)を導入・運営するサービスを有料で提供することを今後のビジネス展開として考えている。実は、IBMにとって、ちょっとした料金でこのようなサービスを提供することは、とてもおいしい話なのである。というのも、IBMは、Apacheという非常に安定したプラットフォームを客先にインストールできるので、サポート費用を大幅に削減できるだけでなく、本当に顧客のためになるサービスを提供できるようになるからである。しかもIBMのエンジニアたちは、Apacheの開発グループとの情報交換を通じて自分たちの知識を深めることもできる。
 こうした考え方を働かせてネットスケープ社もまた、自社のブラウザをソースコードレベルでオープンにしている。もちろんネットスケープ社がそのような行動に出た裏には、市場シェアを安定化させ、できれば拡大させようとする意図があった。しかし、それ以上にネットスケープ社は、コミュニティ内に多数存在する開発者や技術者の手に自社のブラウザのソースコードをゆだねることによって技術革新が押し進められ、自社のブラウザがより優れた製品に作りかえられていくことに期待したのである。
 度々IBMの話をするが同社は、自社の主力機種であるAS400やRS6000シリーズにApacheのようなソフトウェアを組み込めば、導入契約が取りやすくなり、IBMのハードウェアももっと売れるようになる、といったあたりに目をつけてオープンソースの潮流に乗ろうとしている。しかも、その考えをさらに一歩進めて、同社の人気データベースであるDB2のLinux版を開発しようとしている。IBMのこのような動きをとらえて、単にオラクル社がLinux版のOracle8をリリースしたのに対抗してDB2をLinux上に移植しているにすぎないと指摘する人たちも多い。しかし、IBMがオープンソース運動における自らの立場を真剣に考えたうえで、社内のリソースを割り当てているのも事実である。AS400プラットフォームという自社の人気中型汎用機にApacheを移植するという、まさにIBMならではのやり方で、同社はオープンソース運動の技術的成果を認知したわけである。
 このようにオープンソース運動の認知度が高まっていくと、連邦政府や民間の納入契約はどんなふうになるのだろうか? (サーモ・エレクトロン(Thermo-electron)社の)コールマン(Coleman)、SAIC、BDM、それにIBMといった企業は、どんな競争入札をするようになるのだろうか? Linuxを一、○○○本インストールすることを前提とした入札価格と、NTまたはソラリスをインストールする入札価格を比較した場合、Linuxのほうが二五万ドル以上も安い。つまり、OSをLinuxにすることを条件に見積もりすれば、二五万ドル以上も安い価格で応札できる。より多くの契約をものにするために、利益率を1 〜 2%平気で削ることで有名なCSC社などは、Linuxに代表されるテクノロジーの活用法をおそらく探っているにちがいない。
 IBM、オラクル、ネットスケープといった大手はオープンソースにのっとたビジネスモデルを考えはじめている。しかし、ソフトウェア会社の多くはいまだに著作権のあるソリューションを第一に考えている。そしてその保守的な取り組み方は危険このうえない。
 たとえば、ウェブサーバソフトウェア分野におけるオープンソースの普及を否定し続けるマイクロソフトの態度は、一種こっけいですらある。ネットクラフト(Netcraft)社の調査(http://www.netcraft.com/survey)によると、本書の執筆時点で、ウェブサーバソフトウェア市場に占めるApacheのシェアは50%以上に達している。いっぽうマイクロソフトは、同社のIIS(Internet Information Server)が、ウェブサーバソフトウェア市場の半分以上を占めていると喧伝しているが、その数字はあくまでも、市販のサーバソフトウェア市場だけを対象にした場合のものである。つまり、市販のサーバソフトウェア市場では、マイクロソフトがネットスケープ社やロータス社より優位に立っているという話であって、有料・無料を合わせたウェブサーバソフトウェア全体で見ると、Apacheの53%に対してIISは29%にすぎず、マイクロソフトご自慢の「優位」もかたなしなのである。
 マイクロソフトにとって皮肉な状況はこれだけではない。というのも、QUESOやWTFを使って調べると、今やウェブサーバの29%がLinux上で動作しているのである。ちなみにQUESOとは、TCP/IPパケットをサーバマシンに送り、そのマシンからの応答を分析することで、どんなオペレーティングシステムが使われているかを判断するツールである。ウェブで使われるOSとサーバの種類は、このQUESOを、サーバが返すIDタグを分析するネットクラフトのクエリーエンジンと併用することで明らかにできるが、その状況は実に驚くべきものである。
 実際問題、ソフトウェアベンダーの中には、フリーソフトウェアであるLinuxとFree BSDの登場によって、知的所有権のあるUNIXをPC用に売る商売が儲からなくなってしまい人知れず痛い目にあっているところもある。たとえば、PC用UNIXを販売していたコヒーレント(Coherent)社はすでに消滅してしまってもう存在しない。サンタクルーズ・オペレーション(Santa Cruz Operation−SCO)社は、ほんの少し前まではPC用UNIXの代表的ベンダーだったが、そんなことはここ数年でまったくの昔話になってしまった。SCOは、会社として生き残る道をなんとか見つけだすだろうが、同社の主力製品だったSCO UNIXはどうなるのだろうか? やはりオープンソースの犠牲となってしまうのだろうか?
 サン・マイクロシステムズ社が、オープンソース運動の意味をなかなか理解できないでいるのも皮肉な話である。(4.3BSD、4.4BSDのチーフアーキテクトの一人である)カーク・マクージック(Kirk McKusick 本書の第三章参照)がよく言うように、サン・マイクロシステムズ社はバークレーの草の根フリーソフトウェア文化に触発されてスタートした会社である。同社は、LinuxのSPARCへの移植を援助するためにハードウェアを提供したり技術者を派遣したりしてきている。また、ジョン・オースターハウト(John Ousterhout)のTclスクリプト言語の開発を支援してきたりもしている。そんなサン・マイクロシステムズ社が、オープンソース現象を適切に把握できないでいるのである。
 サン・マイクロシステムズ社とSCO社はそれぞれに特徴のあるビジネスをしてきている。
 たとえばサン・マイクロシステムズ社は、その利益の大半をOSとハードウェアの技術サポートから得ている。同社は様々な機種を販売している。ローエンドの機種は、価格的にPC並みのデスクトップワークステーションである。ハイエンドの機種は、業務用の大型サーバ・シリーズであり、これらは性能的にメインフレームと対抗できる製品である。同社の利益の大部分は、ローエンドのUltraシリーズの販売からのものではない。同社は、AシリーズサーバおよびEシリーズサーバといった専用サーバを提供しており、同社の利益の大半は、それらのサーバの販売や有料技術サポート関連のものである。同社が技術サポート、トレーニング、コンサルティングサービスから得ている利益は、実に全利益の50%にのぼると想定される。
 一方、SCO UNIXというオペレーティングシステムの販売で知られるSCO社は、このSCOを中心に、コンパイラやサーバソフトウェアなどの販売、および自社製品の有料トレーニングなどでもっぱら稼いでいる。つまり、SCO UNIXを中核にビジネス展開をはかっているSCO社は、組織としてのまとまりはあるものの、主力製品を脅かすLinuxのようなものが登場しただけで会社全体が壊滅的な被害をこうむる恐れがある。
 サン・マイクロシステムズ社はどうかというと、おそらくローエンド製品が念頭にあるのでLinuxの開発に注目していると思われる。同社は、自社のマシン上でLinuxが確実に動作するようになれば、サン・マイクロシステムズのユーザにひとつのオプションを提供できると考えているのであり、そういう方向にユーザの選択をもっていくことを自社の戦略としている。ユーザがOSとしてLinuxを選択するようになったとしても、ユーザがサン社製のマシンを使っている限り、ハードウェアの技術サポートはサン・マイクロシステムズ社が担当することに変わりなく、同社は利益をあげられるのである。したがって、将来、同社がローエンドマシンを対象にLinuxのソフトウェアサポートを提供することになってもちっとも不思議ではない。
 そしてそうすることはサン・マイクロシステムズ社にとって、思いきった動きでも何でもなんでもないのであるが、今のところ同社にその兆しはない。試しに今、サン・マイクロシステムズ社のマシンを使用している企業のシステム管理者に電話して、サン社の新しいマシンが手元に届いたらまず何をするかと尋ねたら、「(オープンソースの)GNUツールとコンパイラをダウンロードして、好きなシェルをインストールする」という答えが返ってくる。だからサン・マイクロシステムズ社も、オープンソースの利用を考えている話を自社の顧客層から聞かされて、もうすぐ重い腰をあげるかもしれない。しかし、真の意味での顧客ベースのサービスとは、ソースコードの公開を基本としたサービスを提供することで技術革新を広めるサービスのことである。サン・マイクロシステムズ社は、そのようなサービスを開始することこそ本当は得策なのだということがわかれば、オープンソースの潮流から利益を得ることができるだろう。
 一方、SCO社には、サン・マイクロシステムズ社ほどの柔軟なビジネスモデルがなく、オープンソースの潮流を利益に結びつけるのが難しくなっている。SCO社のビジネスは、OSの販売を中核に、コンパイラやテキスト処理言語などのツールを有料で提供している。しかし、Linuxユーザは、そういったツールを当然無料で提供されるべきものと思っている現状を考えると、従来のビジネスモデルを継続していく限り、SCO社がLinuxのようなフリーOSの台頭に対抗してやっていけるはずがない。多彩なハードウェア製品ラインを販売し利益をあげているサン・マイクロシステムズ社と異なり、SCO社は販売可能な自社製のハードウェアを持っていない。SCO社の売りはSCO UNIXというソフトウェアだけであり、オープンソース運動が盛んになりつつある今、それを販売しているだけでは不十分なのである。こういった流れの中で、SCO社はどう対応すべきなのだろう?
 今までのところ、SCO社の対応は賢明なものではない。一九九八年初め、SCO社は同社のメーリングリストに登録されている膨大な数のSCO UNIXユーザ宛に、素人が作成したオープンソフトウェアのLinuxやFreeBSDは動作が不安定であるという内容のメールを送るとともに、SCO UNIXの価格を引き下げると告げている。SCO社のとったこの行為は大変な非難を巻き起こし、結局SCO社は、Linuxの信用に傷をつけるために嘘八百を並べたてたメールの撤回を余儀なくされている。考えの甘かったSCO社は、ユーザがそんな誹謗中傷を真に受けると思っていたのである。最終的にSCO社は、自社のウェブサイトでメールの撤回声明を告知している。
 SCO社の賢明でない対応はそれだけではない。同社は、一九九八年の後半にプレスリリースを通じて、SCO UNIXがLinuxと互換性レイヤを持つことになったと発表している。同社は、これでSCO UNIX上でLinuxプログラムを動かせるようになったと指摘したが、その説明に対するユーザコミュニティからの風当たりは相当強かった。無料で入手できるオープンソースのプログラムと互換性を持たせるために、なぜOSをわざわざSCO社から買わなければならないのか? ユーザコミュニティの不満はそこにあった。
 このようにSCO社は、不十分な対応を繰り返してきているが、実はオープンソース運動から恩恵を受けようと思えばそうできるユニークな立場にあるのである。同社は、価値の高い手持ちの知的資産を足場にすれば、オープンソース運動の未来に確固たる貢献を寄与できるからである。自社の知的財産を食い物にする脅威としてでなく、最先端の技術を自社財産に取り込む機会としてオープンソースの流れに乗っていくことで、そのように思考転換しさえすれば、オープンソース運動の恩恵によくせるのである。
 ところで、マイクロソフトはどうなのであろうか? 今のところ同社は自社固有のプログラムで行く姿勢を崩していない。そういうマイクロソフトにくらべれば、いまひとつ不十分な対応しかしていないSCO社やサン・マイクロシステムズ社が立派に見えてしまうほどだ。マイクロソフトは、少なくともウィンドウズ2000のリリースまでは、オープンソースのビジネスモデルを考えていないように思える。
 マイクロソフトはおそらくウィンドウズ2000を、西暦二○○○年の後半あるいは二○○一年初頭に鳴り物入りで出荷するであろう。ウィンドウズ2000の登場によってNTと98の融合という画期的な出来事がついに実現するわけだが、ウィンドウズNTやウィンドウズ2000が、企業向けサーバ市場で要求される安定性のある堅牢なサーバオペレーティングシステムであるという証拠はどこを探してもみあたらない。しかしマイクロソフトは以前から、「企業向けサーバ市場」に食指を動かしているから、ウィンドウズ2000の出荷が開始される前後、おそらく半年ほど前に、それとは別の新しいオペレーティングシステムとしてマイクロソフト・ウィンドウズを発表するはずである。儲けの大きい「企業向けサーバ市場」では、企業の情報源を取り仕切るサーバマシンがデータを安定に供給できるシステムがどうしても求められる。だからマイクロソフトは、この新しいマイクロソフト・ウィンドウズを企業向けソリューションの決定打として打ち出すと考えられている。
 ここで劇的な変化をもたらすこの製品を、仮に「Windows Enterprise」、略してWEntと呼ぶことにしよう。マイクロソフトは、どうしたらNTからWEntが作れるかと考えるはずである。つまり、NTの信頼性をどのように高め、どのように安定化させればWEntが作れるだろうかと自問するはずだ。しかしながらリーナス・トーバルズが書いているように、OS理論はこの二○年間ほとんど変わっていないから、まったく新しい理論に基づいてOSをゼロから開発するようなことは、いくらマイクロソフトであってもしないであろう。思案のあげくマイクロソフトの技術者は、実行モジュールの中心部分であるエクゼクティブに堅牢なカーネルを組み込むことが高速で信頼性のあるオペレーティングシステムを実現する最善の方法と思うはずである。つまりウィンドウズNTのカーネル部分の不具合を修正するためには、言い替えれば、しっかりしたテストもせずに同社がカーネルに組み込んでしまったサードパーティ製のドライバをまともに動作できるようにしたうえでカーネルのGUI部分を作成するためには、マイクロソフトは、エミュレーションレイヤを書いて実行速度をものすごく落とすか、古いアプリケーションはWEntではサポートしないと腹をくくるしかない。マイクロソフトぐらいになれば、そのどちらを選ぶこともできる。しかし企業は、そんなマイクロソフトからWEntを購入しようとするだろうか? WEntを開発しようとするマイクロソフトをよそに、オープンソースの各種プログラムはもう充分成熟の域に到達しているのである。オペレーティングシステムの導入を検討している企業は、Linuxという安定したカーネルがオープンソースとして手に入るのに、いまさらマイクロソフトに義理立てする必要があるだろうかと自問するに違いない。
 ちなみにマイクロソフトがどこまで安定した堅牢なソフトウェアを本当に開発できるか、実際のところはまだわからない。エリック・レイモンドの言う「ハロウィーン文書(Halloween Documents)」から判断するなら、その可能性を疑問視する声がマイクロソフト内部でもかなりあがっているようである。したがって、ユーザ企業の自問に対する答えがどんなものになるかは、時がたてばおのずとはっきりするだろう。


オープンソースに包含されうる問題点
 科学研究の試みと同じように、ソフトウェアベンチャーの試みもたいていは成功せず失敗に終わる。レッドハット・ソフトウェア社CEOであるボブ・ヤングが指摘している通り、オープンソースであっても、著作権のあるソフトウェアであっても、開発プロジェクトを成功させる難しさにさほど差はない。どちらも、真の成功と言えるようなものはめったにない。どちらも、失敗から学べる者だけが技術革新を達成できる。
 科学研究においても、ソフトウェアの開発においても、技術を前進させる活発な創造活動はかならず何らかの代償を伴う。様々な個人や組織にとって、自発的に取り組むことが一般的なオープンソースの開発プロジェクトの手綱を握ることは容易でない。開発プロジェクトの一本化が難しいのではないかという懸念から、積極的な参加に二の足を踏む人も多い。企業となるとその数はもっと多い。オープンソースの開発プロジェクトを始める、あるいは参加するときに気になるのは、大手の競合企業や集団が入り込んできて、開発の方向性に意見の食い違いが生じてしまうのではないかということである。そうなってしまうと、ちょうど一本道が枝別れしてしまうように、ソースコードレベルで互換性のないバージョンが複数出現してしまいかねない。しかも、それらのバージョンが二度とマージすることがないとなると、開発プロジェクトは看過できない問題を抱えこんでしまう。たとえばBSDベースのUNIXオペレーティングシステムは、開発過程の様々な時点で分裂状態に突入してしまった結果、現在ではNet BSD、Open BSD、FreeBSDなどといった複数のバージョンが存在してしまっている。そういうことがオープンソースのLinuxの開発に起こらないという保証はどこにあるのだろうか?
 Linuxカーネルの開発にそのようなことが起こらない理由のひとつは、その公開メソッドにあると思われる。Linuxカーネルのオフィシャルバージョンは、リーナス・トーバルズやアラン・コックスといったごく少数の人たちが集中的に管理しており、彼ら以外の人が変更を加えることができないようになっている。Linuxのカーネルプロジェクトは、いい意味での独裁制をとっているのであり、リーナスはその頂点にいるにすぎない。しかし、この独裁制のおかげで、今のところは妙なゴミがあまり入っていない、堅牢なカーネルが開発されてきている。
 とはいえ、一種類のLinuxしか存在しないわけではない。世の中には、Linuxカーネルを機器制御用のリアルタイムカーネルに転換するパッチがいくつもある。きわめて特殊なアーキテクチャで使うためのバージョンも存在する。これらもカーネルセットをもとにしているので、派生的に作成された別バージョンのLinuxと見なそうと思えば見なすこともできるが、それらはきわめて狭い範囲の応用分野で特殊な使われ方をしており、Linuxコミュニティに亀裂を生じさせるような悪影響は与えていない。
 ここで先に進む前に、科学理論を特殊な事例に当てはめることをもののたとえとして考えてみよう。ニュートンの運動法則を使って計算すれば、世界のたいていのことは答えが出る。アインシュタインの相対性理論に頼らねばならないのは、質量がものすごく大きいときや、超高速のときなど、特殊な状況のみである。アインシュタインの理論は、ニュートン理論の基盤を損ねることなく拡大させることができる。
 とはいえ科学理論にはお互いに競合する理論もあり、それらは同じ土俵上で衝突することがままある。科学理論の世界と同様に、ソフトウェアの開発においては複数のプロジェクトが競争しあい、同じ土俵でぶつかり合ってしまうこともある。ルシード(Lucid)社の開発したエディタなどは、そのいい例である。ルシード社は、リチャード・ストールマンの開発したEmacsエディタをさらに改良し、別バージョンを作って、ソフトウェアの開発業界に売り込む目的で創設された会社である。当初Lucid Emacsと呼ばれ、やがてXEmacsと呼ばれるようになったプログラムエディタをルシード社はいろんな企業に売り込もうとしている。しかし、Emacsとの際だった差を打ち出すことができなかったことに加え、当時のコンピュータ市場が冷え込んでいたこともあって、ルシード社はあまり長続きせずに姿を消している。
 しかし面白いことに、ルシード社は事業をやめる前にXEmacsをGPLしていた。そのおかげで、商用製品としては陽の目を見なかったXEmacsは、オープンソースソフトウェアの寿命の長さを物語る典型例となった。今でもXEmacsの人気は抜群で、EmacsとXEmacsではどちらがよくできているかと尋ねるだけで、プログラマのあいだに議論を巻き起こすことができるほどだ。改良に取り組んでいる人たちの数はほんの少しに減少してしまったものの、XEmacsはいまだに機能アップされている。新しい時代やアーキテクチャに乗り遅れないよう変更が加えられている。人々が用途を見いだす限り、このソフトウェアは活用され続けるだろう。


真のプログラマにとってのオープンソース運動
 プログラマという人種は、直接的な見返りだけを求めてプロジェクトに参加するわけではない。そこにやりがいがあると思ったときに彼らが忠誠心を発揮するのは、ルシード社の例からも明らかである。彼らは、時給に換算すれば何百ドルにも相当する仕事を、なぜ無報酬でやるのだろうか? どうして、無料で配布するソフトウェアを作ったりするのだろうか? 何を求めて彼らは、そのような行為にはしるのだろうか?
 ひとつ言えることは、真のプログラマたちは、たんなる利他的精神に駆り立てられてオープンソース運動に参加しているわけではない、ということである。彼らはマイクロソフト社のストックオプションは持っていないだろうが、実力は高く評価されている。だから、家賃を払って子どもを養っていくだけの収入はそこそこあるだろう。しかし彼らとてフリーソフトウェアの開発で生活を維持していくことはできない。なのに彼らは、どうして一銭の収入にもならないオープンソース運動に貴重な時間をさくのだろうか? 労働と報酬に関する従来の考え方を踏襲する限り、彼らの行為は一見矛盾しているように思える。しかし、この関係を新しい考え方でとらえなおしてみれば、前述の矛盾はたちまち解消する。労働と報酬の関係について、今や新しい経済モデル、新しい考え方が登場しつつある。
 どうしてプログラマたちは、フリーで提供するプログラムを開発するのだろうか? その理由についていろいろ書いているのは、オープンソースコミュニティの人類学者を自称するエリック・レイモンドである。
 ひとつ心に留めておいてほしいのは、オープンソースのプログラムを作成している多くのプログラマたちは、プログラミングという行為をめんどくさい仕事と考えていないということである。長年プログラミングに従事してきた彼らにとって、プログラミングすることは、ある種の達成感・満足感を味わうための手段にすぎない。Apacheの開発やLinuxのカーネル開発といった、非常に複雑なプロジェクトに参加し、知的作業を行なうことで得られる究極の満足感。真のプログラマが完璧なルーチンやまったく無駄のないコードを書き上げたときに感じる高揚感には、陸上ランナーが走行中に感じるそれにどこか通じるものがある。数日間デバッグしまくって、トラブルのもとになっていた難解なリカーシブルーチンの問題を解決したときの喜びは、いかんとも言葉に尽くしがたい。
 つまり、真のプログラマと呼ばれる人たちは、プログラミングするのが楽しくてプログラミングしている人たちなのである。オープンソース運動について考えるとき、この点をしっかり認識しておくことが必要である。プログラミングすることが楽しみであり、プログラミングを自分の知性を発揮する一手段とみなしているプログラマたちは、コードを書いていないと、陸上競技に参加していない選手のような感じになってしまう。自分が自分でないような気がしてしまう。練習的課題をこなすことよりも実戦の緊迫感を好む点において、プログラマは陸上選手に似ている。プログラミング技術に本当にちょうじたプログラマたちの多くは、既存のプログラムをメンテナンスしているだけでは物足りないのである。
 もちろん、こういった考え方をすべてのプログラマがしているわけではない。プログラマの中には、自分を情報科学の研究者と見なして、プログラミングに対して学究的な取り組み方をしている人たちも多い。そういう人たちは、科学者たるもの、自らの発明で利益をあげるべきではないと考えている。自分のなしとげた成果を万人に公開し共有してもらい、公共の役にたつようなものにしていきたいと思っている。そういう人たちは、利益優先で知識の探求をおろそかにしてはならないと確信している。
 プログラマは、陸上選手タイプに属そうと科学者タイプに属そうと、プログラミングすることを通じて自分の仕事を正しく評価し、知ってもらいたいと思っている。プログラマは、自分の書いたプログラムを他者と分かちあうことができなければ、自分の仕事の本当の価値をわかってもらうことはできない。プログラマの業績は、その人のプログラムが共有されればされるほど、価値あるものとなる。他の人たちとの共有を評価の前提としているプログラミング文化は、いわば贈り物文化である。この文化にあっては、プログラマが正しく業績を評価してもらうためには、自分の書いたプログラムのバイナリだけでなく、ソースコードまで完全に公開して共有する必要がある。
 エリック・レイモンドは、プログラミングを「かゆいところに手が届くようにする」行為と言っているが、その意味するところは、真のプログラマは不足しているものを作りだし、自分の知的生産能力を拡大するためにプログラミングするということである。したがってオープンソース・プロジェクトも、ツール不足が発端となって始まったものが多い。見つけたツールがバグだらけでくさっていたので、自分で作ってしまおうとしたことが発端になっている場合もある。ちゃんと保守されていなかったツールをどうにかしようとして始まったものもある。エリック・レイモンドがfetchmailを作ったのも、ラリー・ウォールがPerlを開発したのも、リーナス・トーバルズがLinuxを開発したのも、みんな同じような経緯が発端となっている。また、リチャード・ストールマンがGNUプロジェクトを始めた動機も、知的生産能力を拡大したいという要求だった。


ベンチャー的発想から見たこれからのオープンソース
 Linuxに代表されるオープンソースのソフトウェアは、真のプログラマの純粋な知的好奇心が動機となって開発されたものかもしれないが、だからといってプログラマたちが自分のライフスタイルを犠牲にして、プログラミング文化の主義主張を貫く必要はない。最近では、自主開発したプログラムをオープンソースにしながら、ビジネス的な展開に実践的な姿勢で取り組もうとする個人や会社が増えつつある。
 我われが暮らし、仕事場を持つシリコンバレーでは、これまでもベンチャーキャピタルの投資が地域経済を活性化させてきた。トランジスタの商業化を最初に後押ししたのもベンチャーキャピタルである。マイクロプロセッサを業界の主流にし、チップやトランジスタ満載の回路基板に代わって流行らせたのも、この同じベンチャーキャピタルである。
 いつの時代にも、ホットなテクノロジにはベンチャーキャピタルから資金が流れ込む。むろん彼らは、ベンチャーとなりそうな企業だけを漁っているわけではないが、投資効率を高めるには、すでに成功している会社に投資するよりも、三年以内にIPO(株式公開)できる会社や、オラクル(世界最大のデータベースソフトウェア会社)やシスコ(世界最大のネットワーク機器の製造販売会社)のように数億ドルで売却できる会社に投資するほうが得策である。
 ところで、一九九八年に入って、インターネットの大きな潮流は勢いを落としはじめたかに見える。ネットスケープ社の鮮烈なデビュー以来相次いだ、インターネット関連企業のIPOラッシュも一段落しつつある。ひとつの時代の終わりを象徴するかのように、ネットスケープ社はアメリカ・オンライン(America Online−AOL)社に買収された。インターネット関連の株価は、投資会社にしっかりと見張られている。インターネット関連企業もほかの企業と同じように、これからは利益があげられると期待できなければ投資の対象とはならない。
 ではベンチャーキャピタルは、今後、どういうところに投資するのだろうか? 今世紀中は、Linuxとオープンソース関連ソフトウェアがホットな投資先になると我々はにらんでいる。運がよければ一九九九年後半には、レッドハット・ソフトウェア社を皮切りに、Linuxおよびオープンソース関連企業のIPOが続々と実現されるだろう。オープンソースの分野には躊躇することなくベンチャーキャピタルの資金が投資され、スクリプティクス(Scriptics)社、センドメール社、そしてヴィックス・コム(Vix.com)社といった企業が株式市況の流れにうまく乗り、自分たちの夢を実現していくにちがいない。
 しかし我われが本当に問いかけるべきは、なぜベンチャーキャピタルの資金がオープンソースに流れ込むのだろうかということではない。我われは、なぜ今頃になって、そういう動きが起こりはじめたかを問わなければならない。前にも書いたように、フリーソフトウェアを世に送り出そうという運動はつい最近始まった話ではない。リチャード・ストールマンがFSFを創設したのは一九八四年である。しかも彼は、それよりずっーと前からフリーソフトウェア運動の先駆けとなるような活動をしてきている。なのに、どうしてフリーソフトウェア運動やオープンソース運動が波に乗るまでに、これほどの時間がかかってしまったのだろうか?
 そこにはコンピュータ業界の特殊な事情が影を落としている。というのも、この業界では、資金力の豊富な巨大企業が商業市場のおいしいところを握っていて、シリコンバレーの有望なアプリケーション開発企業がベンチャーキャピタルの支援を得ようとしても、マイクロソフトに反旗を翻すと思われたが最期、資金を調達することはできない。そういう状況の中で、起業家はマイクロソフトにすりよるか、あるいはまったく勝負しないかのどちらかを選択しないと自分の会社を生き延びさせることができなかった。
 新しいもの作りの支障となるような状況。これこそが、フリーソフトウェア運動がそもそも勢いづく基盤となっている。これはマイクロソフトのオペレーティングシステム、つまりウィンドウズ用にプログラムを書いたことのあるプログラマに聞けばすぐわかることだが、ウィンドウズにはやっかいなインターフェイスがぎっしりと詰まっている。その目的は、マイクロソフトのライブラリに完全に依存しなければプログラムが作成できないようにするためである。マイクロソフトは、ウィンドウズのネイティブプログラムをほかのオペレーティングシステムに移植することをきわめて難しくしようとして、膨大な数のインターフェイスを提供している。
 けれども、ここにマイクロソフトがまだ支配しきれていない分野が登場した。インターネットという大分野がそれである。インターネットには、マイクロソフトがウィンドウズ対応プログラムの開発に際して課しているような制限はまったく存在しない。(IETFの一人である)スコット・ブラドナー(Scott Bradner)が指摘するように、インターネットは一企業を儲けさせるために存在していない。インターネットは、個人の参加を可能にするために維持されているオープン標準の集積なのである。つまりいろんな意味で、インターネットはオープンソース・ベンチャーの草分け的存在と言うことができる。インターネットは、オープン標準を厳守することで、大勢のプログラマがインターネット用アプリケーションを開発する土壌となっている。インターネットの爆発的な成長ぶりは、オープン標準の可能性を示している。
 インターネットの成功を支えている様々な要素は、オープンソース運動にも見ることができる。たとえば、レッドハット・ソフトウェア社やスーセ社といったLinuxのディストリビュータはたがいに競争しているが、あくまでオープン標準とソースコードの共有化を基本としている。したがって、どちらもパッケージ管理ツールとしてRed Hat Package Manager−RPM)を使っており、自社特有のパッケージ管理システムの中に開発者を技術的に囲い込もうとはしていない。デビアングループは異なるパッケージ管理ツールを使っているが、結局はオープンソースなので、Red Hat Linuxとの互換性は保たれている。
 インターネットの技術をベンチャーキャピタルの投資対象として魅力的にしているインフラストラクチャは、オープンソース運動にも存在している。それゆえオープンソースで開発されている技術も、インターネットの技術と同じくらい魅力的になるはずなのである。
 そして、このこと以上に重要なのは、オープンソースが活用できるインフラがインターネットの普及によって整備されたということである。我々はソフトウェアの時代から、ティム・オライリーの言うインフォウェア(インターネットのサイトをひとつのアプリケーションとしてとらえる考え方)の時代に移行しようとしている。それには新規参入を阻む障壁や、配布コストが思いきって切り崩されなければならないが、それを可能にしてくれたのがインターネットの普及なのである。


オープンソースとニュー・ルネサンス
 今見られるようなオープンソースの開発図式は、コンピュータサイエンスのありように基づいている。その発端は一○年以上も前にさかのぼるが、近年、オープンソースが目覚ましい成功をおさめつつあるのは、インターネットの普及によって情報のやりとりが瞬時にできるようになったおかげである。ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見した当時、そのニュースがケンブリッジ大学からカリフォルニア工科大学に伝わるには、どんなに早くて数日から数週間は要すると思われていた。ところが今では、ほぼ同時にどこへでも情報が広まっていく。ルネサンス期の近代科学の開花は、印刷機の発明によってもたらされた。オープンソースは、インターネットの普及によりもたらされたデジタルルネサンスによって開花したのである。
 ルネサンス期より前、中世には文書が手で筆写されていた。誰もが手軽に利用できる情報インフラストラクチャが整っていなかった時代にあって文書の筆写には莫大な費用がかかった。そのため、情報が書き込まれている媒体自体が価値あるものと見なされていた。つまり交易や取引の記録、外交文書は、そこに書かれている情報が伝達するに足る価値があるということで比較的素早く伝達されていた。それに反して、後世に科学者と呼ばれる錬金術師や聖職者、そして哲学者の書きものは社会的観点での優先順位が低く、情報として広められる速度も遅かった。そんな障壁を崩したのが印刷機の発明である。印刷機の登場は、それまで孤立して研究していた学者たちに、自分もヨーロッパ各地で同じような分野で研究している人たちのコミュニティの一員であるという感覚を初めて抱かせている。彼らは、印刷物を利用して、情報の公開と共有を徹底させることでコミュニティを作りあげることに成功している。
 情報の公開と共有に基づくコミュニティ形成を通じて生まれたのが、今我われが学問研究において科学的技法と呼ぶ究極のプロセスであり、学問の自由という概念である。そして情報の公開と共有は、過去何世紀ものあいだ科学コミュニティをまとめる接着剤の役割を果たしてきている。コミュニティを作りたいという欲求がなければ、人類が科学的技法と学問の自由を手にすることは絶対になかった。
 ちょっと想像してもらいたい。もしニュートンが運動法則を発表せず、三○年戦争を当て込んで大砲製作の防衛ビジネスを始めていたとしたら科学は進歩していただろうか? 「放物線の弾道がどうしてわかるか、その秘密は明かさないよ。でもお金を払ってくれたら、砲弾の発射角を決めてやろう」とニュートンが売り込んでいたかもしれないと思うのは勝手であるが、実際問題としてそのような発想は実にばかげている。科学というものは、そんな形で発展できるものではない。科学的頭脳の持ち主が、みんな秘密主義者だったら、科学は発達もしないし進歩もしない。事実、我われの科学は、秘密主義に基づいて発展してきていない。
 インターネットはデジタル時代の印刷機である。前にも書いたように、インターネットが普及したおかげで情報インフラへの敷居が驚くほど低くなった。ちなみに、UNIXのオリジナルバージョンは紙テープで配布された。DOSも最初のころはフロッピーディスクでやりとりされていた。CD−ROMも使われている。しかし、インターネットが普及した今、ソースコードをもはやそんな形で配布する必要はなくなっている。ftpサーバやウェブサーバをインターネット上に設置するだけで、そこを配布センターとして情報を安価に、素早く、効果的に配布できる。
 インターネットの普及によってもたらされたニュー・ルネサンスは前途洋々であるように見える。しかし我われは、オープンソースの開発モデルの基盤となっている、科学的伝統を忘れてはならない。今コンピュータサイエンス学界と業界は、不安定な同盟状態にある。マイクロソフトのような巨大企業からは、短期的な金儲けのために、新規開発を自社の技術で囲い込もうとする圧力が強まっている。しかし、ソフトウェアの開発作業の担い手が、大学や研究所の人間から企業人に移りつつある現在、この業界はアイデアのオープンシェアリングに基づくオープンソース開発モデルを通じて、コンピュータサイエンスを前進させることを考えなければならない。業界は、大義のために利他的精神を発揮せよと言っているのではい。業界は、もっと根本的かつ実利的な理由、つまり賢い自己利益の追求のためにそうすべきなのである。
 オープンソース運動を推進しているプログラマたちは、非常に優秀だが、結局のところ金儲けしか頭にない。コンピュータ業界の人たちはそう思っているかもしれない。しかしそれはいかにも近視眼的な見方である。彼らのように優秀な人材をして業界に魅力を感じさせるためには、業界は彼らが重要だと思っていることを尊重すべきである。自らのプログラムをオープンソースとすることで彼らは自分がいかに高い評価を受けられるかを競っている。科学的な業績の評価は、経済的な成功よりも長く語りつがれるものである。それは歴史が証明している。この一○○年間に登場した偉大な経営者はと問われて思い出せるのは、カーネギー、ロックフェラーなどの何人かにすぎない。しかしこの一○○年に出現した偉大な科学者や発明者となると、アインシュタイン、エジソン……それにポーリングというようにいくらでも名前が出てくる。一○○年後に現在が歴史として記されるとしたら、ビル・ゲイツ以外の名前がコンピュータ企業家として引き合いに出されることはおそらくないだろう。しかしリチャード・ストールマンやリーナス・トーバルズの名前が歴史に残っていることは非常にありえる話だ。
 業界は技術革新を必要としているという事実も、業界がオープンソース開発モデルを推進すべき実利的な理由である。オープンソース開発モデルは、創造的に素晴しい速さで新しいソフトウェアを開発し、デバッグすることができる。その意味で、コンピュータ業界は、オープンソース開発から生まれる次世代のアイデアを必要としている。
 Linuxの例をもう一度考えてもらいたい。Linuxの開発プロジェクトは、マイクロソフトのウィンドウズ NT開発計画より五年遅れでスタートしている。マイクロソフトは、ウィンドウズNTの開発に莫大な資金と労力をつぎ込んできている。にもかかわらず、PCベースのサーバ用オペレーティングシステムとしては、後発のLinuxがNTに匹敵すると今日では思われている。LinuxはウィンドウズNTに代わりうるサーバ用オペレーティングシステムという見地から、オラクルやIBMといったメーカーは、ミドルウェアやバックエンドソフトを次々とLinux向けに移植している。世が世ならマイクロソフトのように力も金もある企業しか開発できないソフトウェアを、オープンソースの開発モデルが世に送出してしまったのである。
 オープンソースの考え方は、コンピュータサイエンスのみならず、コンピュータ業界の進歩を後押しするものであり、デジタルルネサンスの繁栄に欠かせないものなのである。